アラ還原付日記(仮)

カブに乗ったらこうだった! 制限時速30kmで考えるアラ還からの生活。文学フリマ東京に出品する『アラ還原付日記(仮)』の試し読みブログです。

episode 001 徒歩10分の呪い ~納車まで1488日

★アラ還原付日記(仮)その1「崖っぷちペーパー原付ライダー、スーパーカブに乗る」の一部をご紹介しています★


今思えば、伏線は、2015年の夏にあったかもしれない。

「次はどこに住もうか」

唐突に夫がそう言い出したのだ。

終の住処はここじゃない

3歳年上の夫は、その夏58歳。そろそろ定年がちらつくサラリーマンだ。
息子は高校1年生。早ければ3年後には、進学のため家を出ることもありえなくはない。
そうなれば、もう通勤通学の便を考えなくていい。今のこの家にずっと住み続ける理由はないんだから、次に住むところは自由に決められるじゃん、というわけだ。

その時私は、実家の老親の介護問題につまずきながら、こけつまろびつ13冊目の本を書いていた。
息子がよちよち歩きの頃、ひょんなことから作家デビューをした私は、ずっと育児に追われながらこけつまろびつ小説を書いていた。いつの日か子育てから解放され、執筆活動に全振りするのが夢だった。
その息子がようやく義務教育を終えるところまでこぎつけたと思ったら、今度は介護問題だ。

子の成長はある程度見越せるが、親の老い先は見越せない。
私のように無名の作家は、書けなければ黙って置いていかれるだけだ。
次はどこに住むか、だって?
考えたこともないし、考える余裕もないわ。
このへん、すでに両親とも亡く、職業生活にも定年という形で区切りがつこうとしている夫とは、だいぶ温度差があったのだと思う。

だが、よくよく噛みしめてみると、夫のその一言は、先の見えない日々に差し込む一条の光に見えた。
なるほど、今住んでいるこの家を終の住処にすると決めた覚えはない。
小説を書くことはどこでもできるんだから、どこへ引っ越したっていい。
これから先の人生に、まだまだ新たなステージがある。自由に選べる、決められることがあるというのはとても胸躍る楽しい発見だった。

最後のチャンスは今かもしれない

……が。
きっと自由には選べないのだ。
通勤通学がなくなったところで、まったく外出せずに生きていくことはできませんので。

「駅から徒歩10分以内」

という条件を満たすエリアでなければ、自前の移動手段を持たない私たちは事実上身動きが取れなくなる。

徒歩10分以内。
若い頃に住んでいたアパートも、今住んでいる家も、それが譲れない条件だった。無理なく歩ける距離に駅があり、その周辺にスーパーやドラッグストアや銀行があり、日常の一通りの用が足りるところ。その範囲内で予算に合う集合住宅、ないしは戸建て。
都会の駅近物件はとても手が出ないし、郊外に出るほど駅からは遠ざかる。徒歩10分以内という、たったひとつの条件を掲げた時点で、選択の自由は極限まで限られるのだ。

どこへ引っ越すにしても、私たちは結局、似たようなエリア、似たような物件を選ぶのであろう。
だったら夢にも希望にもならないじゃないの、「次はどこに住むか」なんて。
運転免許でもあるっていうなら話も別だけど。

免許……。

車が運転できれば、確かに、話は別だ。
徒歩10分の呪いから解き放たれ、もっと自由に、もっと広いエリアから未来を選ぶことができる。
そしてその免許をもし取るのであれば、50代半ばの今が最後のチャンスなのでは。
そんな思いが胸をよぎったのがその時だったのだ。